優月鉄道管理局
Youzuki Railroad


 

時空乗合

TIME TRIP BUS

The bus comes over from the future and runs towards the past.
A purpose of the bus running is to protect his beloved person.

 

 

 第二部

 

「北都電鉄本線は11日午後8時頃、新佐倉駅で発生した人身事故の影響により、全線で運転を見合わせていましたが、12日は始発から平常どおり運転しています…」

 いつものように、起きてすぐにテレビのスイッチを入れる。早朝のニュース番組が、淡々とそんな状況を伝える。

 野菜ジュースとバナナの朝食を済ませ、あわただしく身支度をすると、隼人はマンションの部屋を出て、駅への道を歩き始めた。

 昨晩の大雨は上がっているが、すっきりしない、どんよりした曇り空。

 いつもの平日の出勤時と同じ時間帯だが、やはり土曜日ということで、駅の混雑は控えめだ。

 改札からホームへの階段を降りようとした隼人は、ふと、その上に掲げてある文字を見て、足を止めた。

 “成功させよう 愛・地球博 3月25日開幕”

 2005年、日本で開催される万国博覧会をPRする広告。

 毎日見ていたはずなのに、今まであまり意識することのなかった、そんな広告の文字が、今日はやけに気になる。

 「万博か…万博…あっ」

 昨晩の出来事。タイムトリップするというバスに乗って、たどり着いた1970年で、あの子は確か、万博が見たいって言った。

 「…実緒梨…ちゃん」

 夢じゃない。

 あらためてポケットから定期入れを取り出す。カード類をはさむ透明なホルダーに 折りたたんで入れた、キャラメルの包み紙の折鶴。

 やっぱり、夢じゃない。

 そうは思いながらも、こんな事ってあるんだろうか…やはり何かの大芝居に紛れ込んだだけなのか、とも思う。

 もやもやした気持ちのまま、ゆっくりと階段を降り、ホームにたどりついた。

 昨日、ここであったはずの人身事故の痕跡など、なにも感じさせない、いつもの風景。ここで、人が命を落としたという事実は間違いないはずなのに、あまりに普通すぎる、いつもと同じ風景。

 伝えられている情報は、ただ人身事故とだけで、それ以上のことは何も分からないし、誰も訊こうとしない…

 やがて入ってきた電車に乗り込み、隼人は職場へと向かった。

 

 

 何も変わらないまま、数日が経過した。

 「そのうち、迎えに来るから」

 別れ間際に、晃星は隼人にそう言った。しかし、今度はどんなタイミングで、どうやって自分のところへやって来るのだろう。

 そんなことを考えながら、退社後の夜の街を歩いていた。その時、

 「あ、あれは」

 駅前のビルの壁に設けられた大きなビジョンに流れるニュースに、隼人は立ち止まった。

1970年の大阪万博以来、日本で35年ぶりの総合博となる、2005年日本国際博覧会「愛知万博、愛・地球博」が25日午前、幕を開けました…

 時計のカレンダーを見る。3月25日。

 「そうか、今日だったのか」

 思わずつぶやき、しばらくその画面を見上げていた隼人の頭に、ふと、実緒梨の顔が浮かんだ。

 “今日かもしれない”

 突然、そんな連想が働いた。そしてなぜかその思いに対して、自分でも不思議なくらい、根拠のない自信が徐々に膨らんできた。

 意を決し、地下街へと降りていく。今日がその日だとしたら、あの日、あのバスと出会った広場へ続く階段が、また自分の目の前に現れるはずだ。

 歩いていると、地下街の途中に屋台があった。そこには、さっきニュースで見た、愛知万博のキャラクターグッズが並べられている。

 その前で立ち止まった隼人は、緑色のキャラクターがついた小さなぬいぐるみキーホルダーをひとつ、手に取っていた。

 「これ、下さい」

 実緒梨へのささやかなプレゼントのつもりだった。

 それにしても、あの時の出口の階段はどこだっただろう。そう考えながら、なおも地下街を歩く隼人。

 「そうだ」

 ふと思い立ち、少し先に見えるトイレに入る。

 鏡の前に立ち、カバンからネクタイを取り出し、シャツの襟に通した。

 隼人の会社では、普段の勤務時の服装はある程度自由が許されている。よって隼人はスーツ姿の時も、窮屈なネクタイはほとんどつけていなかった。

 しかし、今日はこれから、自分を待っている人に会うかも知れないのだ。その人…実緒梨はまだ子供ではあるが、女の子はいくつであろうとレディに違いない。ここはこちらも服装を正すのが礼儀というものだろう。

 鏡を見ながら、ついでに、髪に軽く櫛を入れる。

 その瞬間、思い出した。

 「あの日も確か、ここのトイレに立ち寄って…」

 服装を整え、あわててそこを出ると、さっきまでの喧騒が嘘のように、無人の地下街が広がっていた。

 同じだ。

 確信を持って、隼人は出口の階段へと進んでいく。

 「あっ…」

予想していたが、やはりあの時と同じだ。水銀燈に照らされた小さなロータリー、そしてバス停。

“フォォン”

そして今回も、あのクラクションとヘッドライトが近づいてきた。

 バスが止まり、ドアが開く。

 「こんばんは、隼人お兄さん」

 少し照れたような表情とともに、実緒梨が隼人を見上げた。

 いきなり名前で呼びかけられて、ちょっと驚いたが、晃星が教えたのだろう。

 「ああ、実緒梨ちゃん、こんばんは」

 二週間ぶりの再会。

 この日、一番に気付いたのは、実緒梨の髪型…前回会ったときは、後で2つに分けて括っていたが、今日はそれをほどき、前から見て右側だけを、耳の上の辺りでまとめ、星型のアクセサリーもついている。

 「あ、今日は可愛いヘアスタイルだね」

 すぐに気付いてもらえたのが嬉しくて、実緒梨は満面の笑みを見せた。

 「そりゃ、大事なデートだからな、気合も入るさ」

 そこへ晃星も、バスから降りて隼人を迎えた。

 「ありがとう隼人君、今日は済まないね」

 「いえ」

 「じゃあ、行こうか」

 言われてバスに乗り込みながら隼人は、やっぱりネクタイを締めてきてよかった、と改めて思った。

 そして、夜の街を走り出すバス。

 「実緒梨、今日は行きたいところがあるんだろう、さあ、隼人さんにちゃんとお願いしないと」

 晃星が実緒梨に言う。

 「え、どこへ行きたいの?」

 訊ねた隼人に、実緒梨は決心したように言った。

 「隼人お兄さんの剣道の試合、見に行こう」

 「俺の?ああ、この間会ったときに言った…あんなこと、覚えていたのか」

 

 

 県立運動公園の敷地内にある、大きな体育館。

 高校対抗剣道大会の看板が見える。

 隼人は実緒梨と晃星を、2階の観覧席へ案内した。

 隼人の高校時代…まだ、10年も経過していないが、それでもかつての同級生や、指導の先生たちがいるのを見つけ、思わず懐かしさも感じた。

そこから少し離れたところに三人で座る。

 「よし、ちょうど始まるところだよ」

 二人の選手が向かい合って一礼し、中央へと進む。

 「顔が見えないね」

 「面をかぶっているからなぁ。名前はほら、お腹の下のところに書いてあるだろう」

 剣道の防具のひとつ、「垂」を指差しながら、隼人は説明する。

 「あ、ほんとだ」

 向かって右側の選手の垂のところに「西南佐倉学園 由布」の名前がみえた。

 フロアの中央で二人の選手が向かい合う。「蹲踞(そんきょ)」という、腰を落とした姿勢で竹刀を構える。

 「始め!」

 審判の合図で立ち上がると、勢いよく竹刀を交える二人。ややあって今度は少し離れてにらみ合い、隙をうかがいながら、小手や胴を狙う。

 緩急の連続に、息を呑む観客。

 しばらくの合戦の後、一方の竹刀が相手の面を捉えた。

 「面あり、一本!」

 審判の声と大きな拍手。

 「お兄さん、今のは…」

 訊ねる実緒梨に、

 「ああ、一本とられた、俺が」

 気まずそうに答える隼人。

 「おかしいなぁ、この日の試合は確か、俺が先取して、そのまま一本勝ちだったような…」

 そう思っているうち、試合が再開される。

 緊張した取り組みが続く。そして、

 「胴あり、一本!」

 二本目も相手に決められてしまった隼人。

 「勝負あり」

 両側へ下がり、二人が礼をして試合が終わる。

 「お兄さん、負けたの?」

 隼人の顔を覗きこむ実緒梨。

 「あ、ああ、負けた…うーん、こんなはずじゃ…俺が一本勝ちしたのは、この次の桃瀬高校との試合の時だったか」

 頭に指を当てて、難しそうな顔の隼人。そんな隼人の姿を見ながら、実緒梨はくすっと微笑んだ。

 

 

 「カッコ悪いところ、見せちゃったなあ」

 試合会場を離れ、走り出したバスの中、隼人は頭を掻きながら言う。

 「ううん、カッコよかったよ、隼人お兄さん」

 勝ち負けはともかく、隼人の試合ぶりを見られた実緒梨は、それだけで嬉しそうだ。

 「ありがとう、なぐさめてくれて」

 「今度は、隼人お兄さんの好きなところにつれていって」

 実緒梨は、隼人にそう言った。

 「え、俺の好きなところ?そうだなぁ」

 隼人はしばらく腕組みしていたが、やがて、

 「よし、じゃあ、万博へ行こう」

 「え、万博!」

 実緒梨の目が一瞬、輝いた。

 

 

 芝生がきれいな、広い緑地。

 敷地の真ん中に、バナナを半分に切ったような、独特の形状のモニュメント“太陽の塔”がそびえる。

 ここは大阪の万博公園。1970年に開催された大阪万博の跡地が、記念公園として整備されたところだ。

暖かい陽射しの下、芝生の上にレジャーシートを広げている隼人たちの姿は、どこででも見かける、微笑ましい家族の風景のようだった。

「おおー」

実緒梨が持ってきた弁当箱のふたを開けると、隼人は思わず歓声を上げた。

真ん中に大きな目玉焼き。周りに色とりどりの野菜や果物が添えられている。

もう一箱には、不揃いながら、ごまや海苔など、一個ずつ工夫しただろうと思われるおにぎりが。

「こいつが作ったのは目玉焼きとおにぎりだけ、あとは缶詰とかばっかりだよ」

横から悪戯っぽく口を出す晃星に、むっとする実緒梨。

「いや、きれいに出来てるよ、この目玉焼き。じゃ、いただきます」

黄身が少し硬めで、ちょっと塩味も足りない。でも、

「うん、おいしい」

隼人の言葉に、実緒梨はとびっきりの笑顔を見せる。

「そうだ、これを」

ふと思い出し、隼人は上着のポケットから、小さな包みを取り出すと、実緒梨に渡した。

「お弁当のお礼には、ちょっと小さいけどね」

「何だろう、開けていい?」

頷く隼人の前、実緒梨の手のひらに現れたのは、地下街で買った愛知万博キャラクターのキーホルダー。

「わあ、かわいい」

2005年にも愛知で、万博があるんだ。そのキャラクターだよ」

「ありがとう、大事にするね」

実緒梨はすぐ、それを自分のポシェットの紐に取り付けた。

その後、公園の木々や花を見て歩き、そして太陽の塔をはじめ名残の場所を回り、万博を楽しんだ三人であった。

青い空、白い雲。

過去というものは、往々にして色あせたカラー写真のようなイメージで語られたり、見せられたりするが、実際はこの青も白も、それこそ明治時代、江戸時代、戦国時代…とさかのぼっても、きっと変わることがないのだろう。

 

 

万博公園を出発し、バスは海沿いの道の脇に停まっていた。

楽しい時間はあっという間に過ぎる。

もう、夕陽が水平線に沈もうとしている。オレンジ色の光が細波に合わせて、水面にキラキラ輝いている。

帰る前に海が見たい、と言ったのは実緒梨なのだが、当の実緒梨は遊び疲れたのか、バスの後部座席で静かに寝息をたてていた。幸せそうな寝顔に安心して、薄い毛布を一枚かけてやると、隼人はバスの外へ出た。

晃星は一人で海を見つめていた。

「いいお嬢さんですね。あの目玉焼きもおいしかったし、あんなの毎朝作ってもらえたら幸せだろうな。晃星さんがうらやましいですよ」

堤防の縁石に並んで座る隼人と晃星。

「お嬢さんか…うん、ああ、そうだな…やっぱり、そうとしか見えないよなぁ」

 「え?」

 どういう事だろう、不思議そうに問い直す隼人。晃星は海を見たまま、ゆっくり話を続けた。

 「それにしても、実緒梨のあんなに楽しそうな姿を見られるなんて、あんたには感謝してるよ…僕にはついに最後まで、心を開いてはくれなかった。許してもらえないんだなぁ、やっぱり」

 黙って晃星の方を見る隼人。

 「あんたには、随分世話になった。つき合いついでに、ひとつ聞いてくれるか、僕たちのこと」

 よく分からないが、深刻そうな雰囲気を感じた隼人は、何も言わず頷いた。

 「あいつは…実緒梨は、僕の妹なんだ」

 「い、いもうと!?」

 さすがに驚いて、ちょっと大声になってしまう。

 確かに今どきの家族の形はいろいろだ。古い常識が全てではない。人知れぬ事情もあるだろう。

なにより、ふたりの関係が父と娘か、あるいは祖父と孫だろうというのは、これまでの様子を見ていた隼人の勝手な憶測に過ぎず、本人たちから聞いたわけではない。しかしそれにしても、やっぱりどう考えても不自然な話だ。

 そんな隼人に、晃星はさらに続けた…

 

 

 2005年3月。

 その時、晃星は12歳の小学6年生、実緒梨は10歳の小学4年生。二人は、2つ歳の離れた兄妹だった。

 幼い頃からずっと、二人は仲良しの兄妹として、近所でも、また仲間たちのあいだでも知られていた。快活な兄の晃星は、実緒梨の面倒を良く見てやり、放課後や休日にやっていた野球の練習や試合の時も、連れて歩いていた。実緒梨が友達に泣かされたと聞いたら、その子の家まで一緒に行って、自分のことのように怒った。

 引っ込み思案な実緒梨は、そんな兄の晃星を頼りにして、いつも嬉しそうについて歩いていた。

 しかし、晃星が小学生の高学年になった頃から、そんな関係が少しずつ変わり始めていた。いつも妹を連れて歩いていることを友人にからかわれたりするうち、つい、実緒梨を疎ましく感じ、冷たくすることが増えてきたのだ。

 決して、実緒梨を嫌いになったとか、そういうことではない。妹に対して、絵に描いたような優しさを見せることへのためらい。それは誰でも通り過ぎる、思春期の複雑な感情だった。

 しかし実緒梨にとっては、優しかった兄が少しずつ離れていくようで寂しい。それでつい、晃星の気をひこうとして色々世話を焼こうとし、それがまた、晃星には鬱陶しく感じられてしまうのだった。

 

 

 ある日のこと。

 一人で野球に出かけた晃星。実緒梨は連れて行ってもらえない。

 せめて、帰ってきたときに晃星に喜んでもらいたい。実緒梨はそんな気持ちで晃星の部屋を掃除していた。

 ふと、床に置かれた漫画本につまづき、机の角に手をついた。

 “ガチャン”

 鈍い音に、実緒梨ははっとなった。

 振動で、机の上の棚に置かれていたプラモデルのロボットが落下し、腕が取れてしまったのだ。

 「どうしよう…」

 誕生日に祖父からもらったそのプラモデルを、晃星がどれだけ気に入っていたか、そして完成させるのに、どれだけ苦労していたかを聞いていた実緒梨は、大変なことをしてしまったという思いで、その場に座り込んだ。

 

 

 野球から帰った晃星に、素直に謝ろうとする実緒梨。

 「お兄ちゃん、ごめんなさい…」

 言い終わらないうちに、晃星の拳骨が実緒梨の頭に降り注ぐ。

晃星が実緒梨に手を上げることは、物心ついてからはほとんど無いことだった。大好きな兄を怒らせたという悲しみと、これまでにない痛みで、実緒梨の目から大粒の涙がこぼれる。

 「悪気があったわけじゃないし、もう許してあげなさいよ。ちょっと修理したら直るんでしょう?」

 母親のそんなフォローも聞く耳を持たない晃星は、激しい怒りの表情のまま、実緒梨に言い放った。

 「もう、絶対部屋に入ってくるなよ!!」

 

 

 その翌日の夕方。

 雨の新佐倉駅ホーム。電車を待つ晃星と、少し離れて立つ実緒梨。

 毎週水曜日と金曜日、二人は学校が終わってから、隣町にある塾へ行くようになっていた。同じ塾だが、4年生と6年生では、時間帯が若干異なり、6年生の方が15分早く始まり、また早く終わる。

母親は晃星に、いつも実緒梨を連れて行くように言っていたが、晃星にとっては、これも友人たちから色々からかわれて、そろそろ嫌になっていたところだった。

 特にこの日は、前日のプラモデルのこともあり、晃星の不機嫌さはいつもにも増して高まっていた。

 塾の授業は4年生、6年生とも予定通り始まり、そして予定通り終わった。

 先に終わった6年生のクラスで、晃星に友人が声をかける。

 「おい晃星、駅前のゲーセンに新しいのが入ったぞ、ちょっと見ていかないか」

 晃星は一瞬ためらったものの、

 「おう、行こう」

 そう言って一緒に塾を出ようとする。

 「晃星、実緒梨ちゃんはいいのか?」

 別な友人が心配そうに声をかける。

 「いいさ、もうあいつも、いい加減一人で帰れるだろ」

 15分後、実緒梨の授業が終わって外へ出ると、そこにいつもいるはずの晃星の姿が無い。

 「6年生は予定通り終わったよ。晃星君か…そういえば友達と一緒に先に出て行ったよ。どうしたんだろうね今日は」

 6年生の講師は、実緒梨にそう答えた。

 分かっていた。その日、晃星がなぜ自分を待ってくれなかったか。

 「みおちゃん、お兄さん先に帰っちゃったの?」

 悲しそうな表情に、心配して友人の鈴菜が声をかける。

 「駅まで一緒に帰ろう」

 鈴菜に言われてうなづくと、実緒梨は雨の中を帰っていった。

 

 

 鈴菜は反対の方角の電車なので、駅で別れ、実緒梨は一人で新佐倉の駅まで帰ってきた。

 ホームを歩いて出口の方へ向かう。

 その時、駅の横に隣接するビルの屋上から、一本の銃口がホームに向けられていた。

 標的は、ベンチに座っている一人の若い男。

その頃、地元の有力な政治家と、暴力団との癒着が噂になっていた。

男は、その秘密を知り、政治家をゆすっていたのだ。

スナイパーの銃口は、正確にその男の姿を捉え、周りの人波が途切れるのを待っていた。

男の方へ歩いてくる実緒梨。

後方で、二人の男子中学生がふざけ合っている。

そのうちの一人が、もう一人の足をひっかけながら小突いた。

弾みでよろめいた中学生は、前を歩いていた実緒梨の背中にぶつかった。

「きゃっ」

 いきなり後から押された実緒梨は、ベンチの男の近くで、前のめりになって倒れる。

 人波が切れたと思い、スナイパーにトリガーを引かれた銃の先に、飛び込んできた少女の姿。

 何という、残酷で不幸なタイミングだろうか。

 

 

 事件の真実が外部に出ることはなかった。誰のどんな圧力がかかったのか、晃星は知らない。ただ確かなのは、対外的にはそれが人身事故として扱われた、ということだ。

 それが2005年3月11日、激しい雨の夜のことだった。

 

 

夕陽に染まった実緒梨の部屋。

小学校の制服や帽子、塾のテキスト、お気に入りだった漫画家のイラスト色紙…

彼女がここにいたときのまま残された、それらを見つめながら、晃星はひとり、呆然と立ちつくしていた。

ふと、ベッドの上の大きなぬいぐるみに目をやり、手に取る。

緑色の「森の妖精」…それは実緒梨が、行くのをずっと楽しみに待っていた、2005年愛知万博のキャラクターだった。

 

 

「涙が、出なかったんだ」

ぽつりと、晃星が力なく言う。

「実緒梨のいなくなった部屋で、机の上に置かれた花瓶や、あいつの写真を見ても、涙が出なかったんだ。僕のせいじゃない、あいつが悪いんだって、そんなことばっかり心の中で繰り返しつぶやいて…
 バカな、本当にどうしようもない、バカな子供だったよ…あんたも、確か前に言っていたよなぁ」

「えっ」

「ほら、昔の話は照れくさいというより、本当に情けないって。なんであんなことしてしまったんだろう、なんであんな子供だったんだろうって、全くそのとおりさ。
 自分のやったことの愚かさに気づいて、僕が本当にあいつのために泣いたのは、もう少し時間が経って、大人の考え方ができるようになってからだった。
 どうして、待ってやれなかったんだろう。一緒にいてやらなかったんだろう…せめて、最後の瞬間まで、一緒にいてやれたら…
 僕は、恋愛も結婚もしないって決めた。自分だけが幸せになる訳にはいかない。それが、せめてもの償いのつもりだった」

「そんな…」

兄妹げんかなんて、どこの家庭にだってあるじゃないか。ほんの些細なことだと分かっていても、つい意地を張ってしまうことだってあるじゃないか。大人気ないって、当たり前じゃないか、子供なんだから。

そう叫びそうになる気持ちを、隼人はぐっとこらえた。そんなこと、誰に言われなくっても当然、晃星自身が一番分かっている。そう、分かっていてなお、自分を許せないのだ。

 「タイムマシンが実用化されて、それがバスという形で一般に供用されるようになったとき、僕が真っ先に思ったのは、“実緒梨に会いたい”ってことだった。会って話をしたいとか、謝りたいとかじゃなくて、ただ、物陰から少しだけ、元気な頃の姿を見られるだけでいい。
 僕はそれまでの勤めをやめて、時空乗合の運転手になった。これでいつでも、あいつが生きていた時代に戻ることができる。
 でも実際はできなかった。いざとなると、なんだか怖くなった。あいつが生きている時代に何度も戻ったのに、姿を見に行く勇気がなかった。きっとあいつは、僕のことを恨んでいるだろうとか、そんなことばかり考えた。そうこうしているうちに、もう定年だよ」

淡々と語られる重い告白を、黙って聞いている隼人。そこでふと、新たな疑問が浮かび上がった。

晃星の話が事実だとしたら、さっきまで一緒に遊んでいた、目の前のバスの中で眠っている実緒梨はいったい…

その答えは、続けて晃星の口からもたらされた。

「そんなわけで、気を悪くしないで欲しいんだが、いまここにいる実緒梨は、もちろん本物の実緒梨じゃない…つまり、人間じゃない…コピーロボットなんだ」

「ああ…」

当初の予想が当たってしまったわけだが、できれば当たらないままでいて欲しかった、と隼人は思う。

未来は何て便利なんだろう。タイムマシンの次はコピーロボット。いま、自分たちが生きている世界の延長に、本当にそんな夢のような時代が来るんだろうか。隼人は変なところで感心した。

「もともとは介護用で、離れて暮らしていたりで、肉親の世話をしたくてもできない家族がレンタルするために開発されたものなんだ。顔や体形、声や性格といった情報に基づいて、かなり近いところまで再現できる。最近は僕みたいに、突然の事故や病気で失った家族に、ちゃんとお別れの言葉を言いたいから、という理由での利用も多いらしいよ。
 ただ、いずれにしても人道上の理由で、一人あたりのレンタル期間は上限一年ということになっているんだけどね」

定年を間近にしても、本物の実緒梨に会いにいく勇気がないなら、せめてと思い切って晃星は、最後の一年にコピーロボットであの頃の実緒梨の姿を再現してもらうことにした、という訳だ。これを思い出にして、全て忘れて、この仕事を終えるつもりだったのだ。

 「ロボットなんだから、いくらでも自分に都合のいいように、兄貴に懐くかわいい妹にしようと思えばできた。でも、最後に試したかったんだ、当時のままの設定にして、それでもあいつが許してくれるかどうか。結果は見てのとおりさ。結局、自分の力じゃ、あいつの笑顔を取り戻せなかったよ」

 涙をこらえ、天を見上げる角度に顔を上げて、晃星は話し続ける。

 「でも、これで決心がついたよ。僕が最後にすべきことの決心が」

 「えっ」

「自分の手で、実緒梨の人生を取り戻す。あの日、あの場所に戻って、僕の手であいつを守ってやるんだ。タイムトリップするバスの運転手になった僕の、これが本当に最後の仕事だ。僕があいつにしてやれる、最後の…」

 「晃星さん、あなたまさか」

 晃星の考えていることを察し、隼人は声をあげた。

 「そんなことしたら、今度は」

 興奮して、思わず立ち上がって晃星を見下ろす姿勢で、隼人は続けた。

 「その時は良くても、ずっとずっと大人になったその時に、実緒梨ちゃんが悲しむことになるのは、同じじゃないですか」

 「そうかもしれん。でも、それしかないんだ。それは、僕がやらなきゃならないんだ。今、それができるのは、僕しかいないんだから」

 ゆっくりと、でも力を込めてそう言う晃星に、隼人は何も返せなかった。

 長く、深い後悔の日々の末にたどりついたであろう、晃星の結論。

 その結論への「同情」ではなく「共感」が、隼人を黙らせた。

 

 

 時空トンネルを、2005年に向かって走るバス。

 あの日、仕事帰りに電車が止まった、あれは人身事故じゃなく、本当はこんなことがあったなんて。

 そして、それをきっかけに、俺は実緒梨ちゃんに出会った…何とも不思議な話だ。

 その実緒梨は相変わらず、おだやかな寝顔のままだ。

 「これがロボット、作り物なのか」

 こんなことまでできてしまうなんて、まったく、技術の進歩は本当に素晴らしい。でもちょっと残酷な時もあるなぁ…隼人はそんなふうに思う。

 でも。

 折鶴を見たときの嬉しそうな表情、手をつないだ温もり、黄身がちょっと固めの目玉焼きの味…

どれも、間違いなく本物だった。

 実体はロボットかもしれないが、ここにいるのはやっぱり、実緒梨そのものなのだ。

 この笑顔を、守りたい。

 もう一度、この兄妹の幸せな日々を取り戻すことはできないのだろうか。タイムマシンやコピーロボットを作れる未来の世界でも、こればっかりは無理なのか。

 

 

前回の時と同じように、バスは隼人のマンションに近い、夜の住宅街の公園にたどり着いた。

「隼人お兄さん、今日はありがとう…あの…また遊んでね」

にこにこしながら手を振る実緒梨。

「ああ」

悟られないようにと、作り笑顔で応じる隼人。

「ありがとうな」

運転席の横を過ぎて、降車ドアから出ようとする隼人に、晃星はじっと前を向いたまま、目を合わさないで言った。

「晃星さん…」

最後まで、彼の決意をどうにかする術を考えながら、ついにどうにもできない自分のもどかしさに、言葉にできない苛立ちを感じながら、隼人はバスを降りた。

バタンとドアが閉まり、バスが走り出す。

「さようなら」

嬉しそうに隼人を見ている実緒梨に、力無く手を振る。

「これで良かったのか…」

良いはずがない。しかしだからと言ってどうすればいいのか、自分に何ができるのか。

 去っていくバスが角を曲がり、見えなくなる。

と、ほぼ同時に、反対側から近づいてきた車のライトが、キキーッというブレーキとともに隼人の目の前で止まった。

 パトカーだ。しかも、この古びた車のデザインは…

 時空警察だ。

 以前、時空トンネル内で遭遇した、あの時と同じ警官、そして今日は別な私服刑事らしき人物もいっしょに、車から降りてきて隼人に近づく。

 「あなた、時空乗合908系統に乗っていた方ですね」

 無言で頷く隼人。

 「あのバスが、タイムトリップ事業のルールを破った違法営業をしているという情報が、複数寄せられています。何か知っていることがあったら、隠さず教えていただけませんか。ご協力いただけないと、あなたにもご迷惑がかかる場合が…」

 丁寧だが、厳しい口調で隼人に接する刑事。

 次の瞬間、きりっとした表情で刑事の目をしっかりと見つめながら、隼人は言った。

 「刑事さんの言うとおり、あのバスは違法な営業をしています。自分は、あのバスが次に目指す場所の見当がついています。案内しますよ」

 「ご理解、ご協力に感謝します」

 そう言うと刑事は、隼人をパトカーの後部座席へ乗るよう促した。

 

 

 時空トンネルを抜け、バスはまた、何度か来たことのある夜の幹線道を走っていた。

 激しい雨が続く。やがて市街地に入り、美術館の大きな駐車場にバスは止まった。すでに閉館時間を過ぎ、建物の明かりも消え、静かな空間。

 エンジンを切りサイドブレーキをかけると、晃星は実緒梨に言った。

 「ここで、ちょっと待ってて」

 そう言って一人バスを降りようとした時、実緒梨が黙って、晃星の上着の裾をつかんだ。

 振り返る晃星に、

 「早く、帰ってきてね」

 ぽつんとつぶやく実緒梨。

 晃星は思わず床にひざをつき、実緒梨をぎゅっと抱きしめた。

 「ごめんな、実緒梨…ずっと寂しい思いをさせてしまったな…バカな兄貴を許してはもらえないのは分かってるよ。こんな事しかできないんだ。だから、今、助けてやるからな」

 そのまま、実緒梨の顔は見ず、急いでバスを降りる。

 その時、

 一台の車が猛スピードで近づいてくると、激しいブレーキとともに晃星の目の前に止まった。

 時空警察のパトカーだ。

 あわただしく降りてきた警官が、両脇から晃星を取り押さえる。

 「タイムトリップ事業に関する違法営業の疑いで、署まで来て話を聞かせていただきたい」

 そう言う刑事の後に出てきたのは隼人だ。

 「君、どうして」

 驚く晃星に、隼人は答えた。

 「やっぱりこの時間、駅の近くで目立たずに大型車を置ける広いスペースといったら、多分ここだと思ったよ」

 そして、

 「後は俺に任せて!!」

 言うと、隼人は警官の脇をすり抜け、雨の中を傘もささず一目散に駆け出した。

 「こら、待たんか!!」

 一人の警官が隼人を追って走り出す。

 「隼人君…」

 あっという間のそんな出来事を、晃星も実緒梨も、唖然とした表情で見つめていた。

 が、すぐに晃星は、追って走った警官に向かって言った。

 「早く彼を、隼人君をつかまえてくれ!! でないと、彼は…」

 

 

 走る隼人と、追う警官の距離が徐々に縮まる。

 しかし、ここはなんといっても隼人の地元だ。駅が近づくにつれ、昔からの街並みで細い路地がたくさんある。まんまと警官をまき、新佐倉駅前広場に飛び出した。

 ちらっと腕時計を見る。もう、あまり時間がない。

 「間に合え、間に合え」

 心の中で念じるようにつぶやきながら、改札に飛び込む。

 「おい、君!!」

 駅員の制止も無視し、ホームに駆け込む。

 突然現れたずぶ濡れの男の姿に驚く乗客たち。

 かまわずホームを見渡し、実緒梨を探す。

 「いた!!」

 とぼとぼと歩く実緒梨の姿が見えた。そしてその近くで、ふざけ合っている中学生。

 隼人は走った。

 「間に合え、間に合え」

 小突かれてよろめいた中学生の体が、実緒梨の背に当たる。

 前のめりになる実緒梨。

 その胸のあたりへ飛び込む隼人。

 人ごみの中、はっきりと顔を合わせてはいないが、隼人の両手に、小さな体を押し戻す感触が、確かに伝わった。

 次の瞬間、激しい衝撃と鈍い金属音が隼人を襲う。

…遠くに、悲鳴とどよめきが聞こえた、そんな気がした。

 

 

ここは、どこだろう。

ドライアイスのような白い煙が足元を覆いつくしている広い空間を、隼人は一人歩いていた。

ゆっくり、淡々と機械的に歩いていく。何かに取りつかれているような違和感はない。むしろ、満足感、達成感のようなものが、彼の足取りを軽やかにしていた。

「お兄さん、隼人お兄さん」

呼ばれて振り向くと、そこには実緒梨がぽつんと立っていた。

「ああ、実緒梨ちゃん」

笑顔で呼びかける。

「どこへ行くの?」

不安そうな実緒梨に、隼人は変わらない優しい笑顔で答えた。

「うーん、分からないけど、なんだかとても落ち着いた気分なんだ。実緒梨ちゃんは何も心配しなくてもいいよ」

「お兄さんも、いなくなるの?」

「え?」

「みんな、わたしの前からいなくなるの…また、お兄さんもいなくなるの? …みんな、わたしのことが嫌いなの?」

力ない声で訴える。

ああ、そうか。

実緒梨が死んだということ、それは周りの者からみれば彼女の存在が消えたということだが、彼女の側にしてみれば、周りの者が自分の前から消えたという感覚なのか。

隼人は振り返って実緒梨の前まで歩み寄ると、ひざを地面につく姿勢で視線を下ろし、実緒梨の両肩に手を置いて、励ますように言った。

「君には、晃星お兄ちゃんがいるじゃないか。彼はとっても妹思いの素敵なお兄ちゃんだよ。けんかすることもあるだろうけど、君のことが本当に嫌いだったり、憎かったりするわけじゃない。うーん、そうだな…ちょっと、照れくさいだけさ」

「照れくさいの?」

「そう。男ってのはバカだから、つい意地張ったりするんだよ。晃星お兄ちゃんだってそうさ。
 
でも、本当は…君のことが大好きなんだ。だからずっとずっと、君のことだけを想って、今日まで過ごしてきたんだ。ほんの少し、冷たく当たってしまったことを、心から後悔しているんだ。
 兄妹げんかなんて、誰だってするよ。君たちは、それが不幸なタイミングと重なってしまった。でもすぐに仲直りできるよ。 だからもう一度あの時に戻って、ちゃんと仲直りして、これからの自分の人生を歩いていくんだ…ああ、そういうことだったのか」

次第に、大きな瞳を涙でいっぱいにしていく実緒梨の前で、隼人は何かに気づいたように立ち上がった。

「あの日、本当は出会うはずのなかった俺と、君たちのバスが出会ったのは、きっとこうするためだったんだ。ずっと思ってたんだ、これはただの偶然じゃない。俺がこのバスに乗ったのには、何か意味があるはずだって。
 この二人の兄妹の未来を取り戻せるのは、自分しかいないんだってことだったんだ」

「分からないよ、隼人お兄さん…何言ってるのか分からないよ」

涙目で見上げる実緒梨に、なお優しい口調で続けた。

「いいんだよ、俺の言っていることなんて何も分からなくたって。これで君も、晃星お兄ちゃんも、一度は失ってしまった未来を取り戻すことができる。また自分の足で、自分の人生を歩いていくことができるようになる。それでいいんだ。
 
俺がこうすることで、君たちはもう未来の世界でバスに乗ってタイムスリップする理由もなくなる。だから新しい君たちの人生では、もう俺に出会うことはない。何も気にすることはない。それでいいんだよ。
 
ただ、実緒梨ちゃん、一つだけ俺に約束してくれるかい?」

もう一度、隼人はひざをついて実緒梨と目線を合わせると、大切なことを伝えるように、力をこめて言った。

「幸せ、つかめよ!」

 やがて、泣き顔のままの実緒梨が、視界からゆっくりと消えていった。

 

 

 夜明け前の、まだ薄暗い街。新聞配達のバイクの音だけが周囲に響く。

 マンションの自室のベッド上で、隼人は前夜の帰宅時のスーツ姿のまま、浅い眠りから覚めないでいた。

 机の上には、コンビニ弁当の空き箱と、飲みかけの缶ビール。

 つけっ放しのテレビが、早朝のニュースを流している。

「北都電鉄本線は11日午後8時頃、新佐倉駅で発生した人身事故の影響により、全線で運転を見合わせていましたが、12日は始発から平常どおり運転しています。なお、事故の犠牲となった男性は、年齢20歳から30歳くらいで中肉中背、現在のところ身元が判明しておらず、警察では家出人の捜索願いや、行方不明者リストとの照会を急ぎ…」

 

 

昨晩の大雨は幸い一段落したようだ。曇り空の下、隼人は職場へ向かうべく、新佐倉駅のホームに立っていた。

「それにしても大変だったなぁ」

昨日はここで人身事故があり、電車がストップしてしまったため、大雨の中を代行バスの列に30分近く並び、さらに乗ったバスも渋滞で思うようには走れず、普通なら電車と徒歩で20分のところを、1時間半近くかかって帰り着いたのだった。遅い夕食をとり、そのまま疲れて風呂にも入らず寝てしまったので、どうもすっきりしない。

今日は土曜日なので全体的にいくぶん空いているが、それでも頻繁に電車が走り、大勢の人が行き来する、そんないつもと同じ風景。

 やがて都心へ向かう電車が到着し、わずかな停車時間ののち、隼人たちを乗せて発車していったその後、しばらくして反対側のホームへの階段を上がってきた、小学校の制服姿の兄妹の姿があった。

 実緒梨と晃星。

 彼女は、助かったのだ。

 …新佐倉駅のホームで、実緒梨をかばって撃たれたのは、数日後の未来から戻ってきた隼人だった。しかし、実緒梨が助かったことで彼女の歴史は変わり、晃星の歴史も変わった。もう晃星が時空乗合の運転手になることはない。そしてその時間、まだ会社にいた隼人も、晃星・実緒梨と出会うことはなくなったわけだ。

 何も知らないまま、隼人は代行バスに乗って帰った。そしてこれからも、変わらない生活を続けていくことだろう。

これまでの物語で描かれてきた世界の隼人…実緒梨が凶弾に倒れた同じ日に、偶然、時空乗合に遭遇して晃星たちと出会い、そして撃たれた…は、こうして歴史の流れの中に消えてしまった。

犠牲者の姿がいつの間にか忽然と消えたことは、警察や病院関係者の間で大きな騒ぎとなっていたが、もちろんそれが外部に知らされることは無かった。

 

 

 一方、無事だった実緒梨は、急いで帰宅すると、目の前で男が銃弾に倒れるのを見たショックで泣き出し、母親の胸に飛び込んだ。

 事情を聞き、さぞ怖かっただろう、と父親も心配する中、ひとり兄の晃星だけが、相変わらずぷいと横を向いたままだった。

 「だめじゃない、ちゃんといつも、一緒に帰るようにって言ってるでしょう」

そう母親に注意されても、プラモデルの恨みが消えない晃星は聞かない。それどころか、泣き顔の実緒梨に、嫌味たっぷりな口調で追い討ちをかけた。

 「おまえが撃たれればよかったんだよ」

次の瞬間、

 “バシッ”

 刑事ドラマで犯人が殴られるときのような、鈍い音と激痛が晃星を襲った。

 父親の拳骨だった。

 いつもは温厚で、間違いを注意するときもあくまで優しく諭すように言って聞かせる父親。その彼が、まさに吹っ飛ぶ勢いで晃星を殴りつけた。

「言っていいことと、いけないことの区別が、そろそろついてもいい齢じゃないのか、晃星」

これまでに見たことも無い鬼の形相でにらみつける父親の姿に、実緒梨も泣き止み、唖然としていた。

 翌朝になっても、晃星の頬にはうっすらと赤い痣が残っている。

 「だいじょうぶ?」

 心配する実緒梨に、

 「うるさい」

 としか答えない晃星。

 二人が仲直りするには、まだ少々時間がかかりそうだ。

 でも大丈夫。彼らには、そのための時間の余裕がたっぷりあるのだから。

 歴史は、ゆがめられたのではない。

 ただ、元々あった道に戻っただけのことだ。

 

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