The days which
earth people strike out into |
(1)
やっとの思いで家に着いたが、時計はすでに22時をまわっている。
「おーそーいっ」
従姉妹のアオバはだいぶ前から来ていたみたいで、台所の入り口のところで腕を組み、こちらを睨みつける。
「すまん、これでもバスを待つのをやめてタクシーにしたんだけど、道が混んでるから結局一緒で」
「いいから、早く庭の方へ行ってあげなよ、イズミちゃん待ってるよ」
「ああ」
ネクタイをほどきながら廊下を進み、庭に面した部屋にたどりつくと、縁側に座るイズミの背中が見えた。
「ただいま」
イズミは振りかえると、嬉しそうに笑顔を見せ、立ち上がった。
「あ、おかえりお兄ちゃん」
彼女のひざの上で機嫌よく寝ていた猫のサクラが、驚いて飛び起き、庭に駆け降りる。
「その格好は…」
「えへへ、どう、似合うかしら」
黒のワンピースに白いエプロン、胸元に赤いリボン、頭にカチューシャ。メイドさんのような衣装のスカートをつまみ、ポーズをとった。
「ああ、この間の手紙に書いてた、アルバイト先の制服か」
「うん」
「よく似合ってるよ」
「ほんと、ありがとう」
実際、その清楚な衣装に身を包んだイズミは、まるで人形のような愛らしさを感じさせる。
「イズミちゃん、ハクト君にこれ見て欲しくて、晩ご飯食べた後からずっと着て待ってたんだよ」
アオバがサクラを抱きながら言った。
「そうか…ゴメンな、こんな時間になっちゃって」
「ううん、お兄ちゃん、仕事なんだから仕方ないよ」
「でももう大丈夫。これからの時間はきっちり休み取ってあるんだから、誰に呼ばれたって行かないよ」
そう言ってイズミと一緒に縁側に座った。
昼間の暑さも一段落し、ぶら下がった風鈴がささやかな風を受けて静かに鳴っている。
「ほら、よく冷えてるよ」
アオバが切ったスイカを持ってきた。
「うわー、きれい」
あざやかな赤色に、イズミは思わず声をあげた。
彼女は小さい頃から、スイカが大好きだった。
「明日は、早いの?」
アオバが俺に訊ねる。
「いや、昼過ぎで十分間に合うだろう。メガロポリスまでは3時間くらいで行けるし、急行の発車は23時55分だから、パスポートや荷物の手続きを入れても余裕だ」
「月か…いよいよ行けるのね、お兄ちゃんの住んでるところって、どんなふうなんだろう」
弾んだ声でイズミが言う。
「サクラのことはあたしが見ていてあげるから、安心して」
「悪いなアオバ、いつも世話かけて」
「水くさいこと言わないの。じゃ、邪魔ものは消えるから、何かあったら呼んでね」
言いながらアオバは、二ャーニャーと騒ぐサクラを抱いて、台所の方へ行ってしまった。
二人並んで、アオバが持ってきたスイカを口にする。冷たさと甘さが広がり、なんとも心地いい。
こんなに穏やかな気持ちになったのは、本当に何日ぶりだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
そっとイズミが話し掛けてきた。
「遠足の前の夜って、こんな感じなのかなあ」
「遠足?」
「わくわくして、どきどきして、眠れないっていうか、興奮して」
「ああ、そうだな、言われてみれば、そんな感じかな」
子供の頃、俺たちが普通に味わってきたそんな感覚を、イズミはほとんど知らない。
遠足、運動会、修学旅行…生まれつきのその体が、彼女にそんな思い出を作ることを許さなかった。
「お兄ちゃんの住んでるところ、いちど見てみたいな」
きっと何気ない一言だったんだろう。多分、いや絶対無理だとわかっていて。
しかし、俺はその一言に本気になった。
体調も少し落ち着いている今なら、可能かもしれない。
俺が仕事の都合で月面基地に移住して以来、イズミにはこれまで以上に寂しい思いをさせてしまった。ほんのささやかな願いくらい、どうにかして叶えてやりたい。自分に出来るものなら何とかしたい。
主治医に何度も反対されながらもあきらめず、投薬の方法や呼吸を落ち着かせる方法を聞き出し、いざという時のために月面基地の病院にも協力を依頼し、やっと今日を迎えた。
「お兄ちゃん、学校の近くのお菓子屋さん、覚えてる?」
またイズミが話し掛けてきた。
「ああ、あの疑い深いばあさんの店か、せっかくアイスで当たりが出ても、交換してもらおうと思って行ったら、『本当にウチで買ったやつか』ってさんざん問い詰められて、結局交換してくれない、あそこのことか」
子供の頃のどうでもいい記憶は、どうしてこういつまでも忘れないんだろうと、我ながら不思議に思う。
「あそこ、去年オーナーが変わってね、ケーキ屋さんになったんだ。イチゴとかサクランボがいっぱいのったゼリーがすごくおいしかったの。でもこのあいだ閉店しちゃった、たった一年で。マンションか何か建てるんだって」
「ふーん」
「それとね、お兄ちゃんと学校の帰りに寄り道したレンゲ畑、覚えてる? よく花輪作ってくれたよね。あそこも、この間久しぶりに行ってみたら、駐車場になってたよ」
「ほう」
いずれもあまり彼女にとっていい話ではないらしいので、どうフォローすればいいか分からない。そう思っていると、イズミがしんみりつぶやいた。
「…ずっといっしょのままじゃ、いけないのかな。変わって欲しくないものが、みんな変わっていっちゃう」
「それは…」
本当に世の中の変化は目まぐるしい。その変化の多くは、より良い、価値ある物を求めるがゆえの行動であり、自分の仕事だってそんなところがある。しかし、その変化についていけない者は、自分だけが取り残されたような寂しさを感じている。
変に慰めるのも子供扱いしてるみたいになるし、かといってもっともらしく説教する気もさらさらない。どう声を掛けていいか分からず、俺は話を変えるきっかけを求めた。
「ちょっと、塩取ってくるよ」